李光耀(이광요)
●リー・クアンユー
Lee Kuan Yew
李光耀
日本語読み:り こうよう
1923年 - 2015年3月23日
長男:リー・シェンロン(李顕龍) 3代目首相
シンガポール華僑粛清事件の際、自身も集合場所に集められ粛清に巻き込まれかけたが、禁区内の友人宅で1日半ほど待機していたところ、審査済とされ難を逃れたという。
さらに、日本語と中国語の学習を始め、翌1943年から1944年までの間、日本側と協働して、昭南特別市の報道部において、連合国の通信を盗聴した内容を翻訳する業務に従事した。
戦後の1945年にイギリスへ留学。ケンブリッジ大学のフィッツウィリアム・カレッジで法律学を専攻し(後に名誉校友となる)、1949年に首席で卒業した後、同年に帰国した後は弁護士資格を取得し、“Laycock and Ong”という法律事務所に勤務した。
中国国民党が汚職によって中国大陸で信頼を失ったことをよく認識していたリーは、自身が共産主義者たちと戦った経験から、清廉な政治体制を貫かなければならないと強く認識するようになった。汚職調査局 (CPIB) を設置して、逮捕の実行、捜査、告発者との連携、容疑者に対する銀行口座や所得税申告の調査など、局に多大な権限を付与する法律を導入した。
リーの支援により、調査局はどのような事件に対しても捜査を行う権限が与えられており、実際に数人の大臣が逮捕されている。
「チベットに抱く西側の人々のイメージは『ロマンチックな理想郷』であり、『ヒマラヤとダライ・ラマ』の地だ。しかし、中国にとってのチベットは『封建社会』であり、『後進地域』なのだ。中国はチベットを支配して以来、インド的な身分制度や農奴を廃止し、医療施設、学校、道路、鉄道、空港などを作り、少なくともチベットの生活水準を上げてきた」と語ることによって西側メディアの中国批判を牽制した。
2015年3月23日、シンガポール首相府より死去したことが発表された。91歳没。没後、日本国政府より桐花大綬章(とうかだいじゅしょう)が追贈された。
▼『リー・クアンユー回顧録』より
白人は生まれながらに優秀であるという優越神話をうち立てることに成功したので、多くのアジア人は英国人に刃向かうことなど現実的でないと思い込んでいた。 しかし、アジアの一民族である日本人が英国人に挑戦し、白人神話をうち砕いてしまったのである。
ところが日本人は我々に対しても征服者として君臨し、英国よりも残忍で常軌を逸し、悪意に満ちていることを示した。 日本占領の三年半、私は日本兵が人々を苦しめたり殴ったりするたびに、シンガポールが英国の保護下にあればよかったと思ったものである。
同じアジア人として我々は日本人に幻滅した。日本人は、日本人より文明が低く民族的に劣ると見なしているアジア人と一緒に思われることを嫌っていたのである。 日本人は天照大神の子孫で、選ばれた民族であり遅れた中国人やインド人、マレー人と白分たちは違うと考えていたのである。
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リー・クアンユー回顧録では原爆投下については「広島と長崎に原子爆弾が落とされなければ、数十万人に上るマレーとシンガポールの民間人や、日本人でさえも数百万人が犠牲になっていただろう」と述べている。
第二次世界大戦に関する対日歴史認識についてリーは、日本軍が英国に勝ち、白人神話をうち砕いたと評価する一方で、日本軍の占領政策は過酷で非人道的だったとし、占領されていた三年半、日本兵が人々を苦しめたり殴ったりするたびに、英国の保護下のほうがよかったと思うようになり、日本人に幻滅したと日本軍の占領政策を批判している。他の東南アジア諸国の首脳であるフェルディナンド・マルコス、スカルノ、マハティール・ビン・モハマドらが「植民地解放のための戦争」と評価する立場に位置づけた点とは対照的であった。シンガポールの歴史教科書は日本軍の戦いに対し否定的な立場で書かれている。
Lee Kuan Yew
李光耀
日本語読み:り こうよう
1923年 - 2015年3月23日
シンガポール華僑粛清事件の際、自身も集合場所に集められ粛清に巻き込まれかけたが、禁区内の友人宅で1日半ほど待機していたところ、審査済とされ難を逃れたという。
さらに、日本語と中国語の学習を始め、翌1943年から1944年までの間、日本側と協働して、昭南特別市の報道部において、連合国の通信を盗聴した内容を翻訳する業務に従事した。
戦後の1945年にイギリスへ留学。ケンブリッジ大学のフィッツウィリアム・カレッジで法律学を専攻し(後に名誉校友となる)、1949年に首席で卒業した後、同年に帰国した後は弁護士資格を取得し、“Laycock and Ong”という法律事務所に勤務した。
中国国民党が汚職によって中国大陸で信頼を失ったことをよく認識していたリーは、自身が共産主義者たちと戦った経験から、清廉な政治体制を貫かなければならないと強く認識するようになった。汚職調査局 (CPIB) を設置して、逮捕の実行、捜査、告発者との連携、容疑者に対する銀行口座や所得税申告の調査など、局に多大な権限を付与する法律を導入した。
リーの支援により、調査局はどのような事件に対しても捜査を行う権限が与えられており、実際に数人の大臣が逮捕されている。
「チベットに抱く西側の人々のイメージは『ロマンチックな理想郷』であり、『ヒマラヤとダライ・ラマ』の地だ。しかし、中国にとってのチベットは『封建社会』であり、『後進地域』なのだ。中国はチベットを支配して以来、インド的な身分制度や農奴を廃止し、医療施設、学校、道路、鉄道、空港などを作り、少なくともチベットの生活水準を上げてきた」と語ることによって西側メディアの中国批判を牽制した。
2015年3月23日、シンガポール首相府より死去したことが発表された。91歳没。没後、日本国政府より桐花大綬章(とうかだいじゅしょう)が追贈された。
▼『リー・クアンユー回顧録』より
白人は生まれながらに優秀であるという優越神話をうち立てることに成功したので、多くのアジア人は英国人に刃向かうことなど現実的でないと思い込んでいた。 しかし、アジアの一民族である日本人が英国人に挑戦し、白人神話をうち砕いてしまったのである。
ところが日本人は我々に対しても征服者として君臨し、英国よりも残忍で常軌を逸し、悪意に満ちていることを示した。 日本占領の三年半、私は日本兵が人々を苦しめたり殴ったりするたびに、シンガポールが英国の保護下にあればよかったと思ったものである。
同じアジア人として我々は日本人に幻滅した。日本人は、日本人より文明が低く民族的に劣ると見なしているアジア人と一緒に思われることを嫌っていたのである。 日本人は天照大神の子孫で、選ばれた民族であり遅れた中国人やインド人、マレー人と白分たちは違うと考えていたのである。
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リー・クアンユー回顧録では原爆投下については「広島と長崎に原子爆弾が落とされなければ、数十万人に上るマレーとシンガポールの民間人や、日本人でさえも数百万人が犠牲になっていただろう」と述べている。
第二次世界大戦に関する対日歴史認識についてリーは、日本軍が英国に勝ち、白人神話をうち砕いたと評価する一方で、日本軍の占領政策は過酷で非人道的だったとし、占領されていた三年半、日本兵が人々を苦しめたり殴ったりするたびに、英国の保護下のほうがよかったと思うようになり、日本人に幻滅したと日本軍の占領政策を批判している。他の東南アジア諸国の首脳であるフェルディナンド・マルコス、スカルノ、マハティール・ビン・モハマドらが「植民地解放のための戦争」と評価する立場に位置づけた点とは対照的であった。シンガポールの歴史教科書は日本軍の戦いに対し否定的な立場で書かれている。
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